「学べたことが幸せ。光陵こそが私の母校」

〜稲元英生先生、定年退職〜


磯子工業高校グラウンドでたたずむ稲元先生

2009年3月をもって、磯子工業高校英語教諭・稲元英生先生が定年退職を迎えられます。

大学で文学部英文学科を出られた稲元先生は1975年秋採用で高校教諭となられ、光陵高校に赴任。 野球部の顧問になり、15年にわたり光陵高校野球部に携わられました。 自身に野球経験はなかったものの、軟式時代の関東大会出場(1978年)、 軟式から硬式への転向および硬式初勝利(1988年)等を成し遂げ、硬式世代史上最高(2008年時点) の1991年夏のベスト16進出の下地も作られました。

1991年から3年間の深沢高校での教鞭を挟み、1994年から現在の磯子工業高校に赴任。 野球および英語の教育に情熱を注ぎ続けました。60歳を迎え、今春に定年退職予定。 長き教員時代を象徴するような多くの書物に囲まれた自席を整理するお忙しい中、 3月9日(月)に磯子工業高校におじゃましてお話を聞かせていただきました。

(25期・山口陽三編、写真も)

定年退職を迎えられて
山口 33年間、おつかれさまでした。まずは今の率直なお気持ちは...?
稲元 失敗ばかりの教員生活でした。
大過なくと言いたいところですが、大過ばかりでした。
山口 どのような事柄ですか? 教育面、野球面、人生面...?(言える範囲で)
稲元 すべてですね。
成功した事柄はない。失敗ばかり。
常に "should have 過去分詞"(〜すればよかったのにしなかった)
山口 教師になられたきっかけは?
稲元 新聞記者を辞めて仕事がなかったのが正直なところです。
かっこいいことを言うつもりありませんし、本音です。
山口 先生は長く英語を教えてこられましたが
現在の英語教育についてお考えのこと、お感じのことがあれば...
稲元 英語は難しい。努力が必要。難しいという事実を認めないといけない。
教えている私も英語は得意ではないんです。
アメリカの日本文学科は英訳された日本文学を勉強している。
やり方を考えないと。
野球と同じで一見やさしそう。でも真剣にやろうとするとルールから
理解しないといけない。
光陵での15年間
山口 さて、僕と先生が出会ったのは光陵高校で、となるわけですが
光陵高校での15年間ではどういう思い出が?
稲元 関東大会に行ったことが1番の思い出です。
1978年、金森くんの代です。(12期)

(記念のメダル)
山口 あ、赴任されてわりとすぐに関東大会に...すごいですね。
15年の中ではいいこと、悪いこと、あったでしょうけれど
野球を通しての生徒とのつき合い方とかは?
稲元 監督は孤独でした。自分も若いからキャプテンを通じて選手と
つながりを持とうとしましたがうまくいかず...。
それに耐えられなくて失敗が多かったですね。
でも野球は光陵高校でみんな(生徒)からいっぱい教えてもらいました。
光陵は私の母校です。光陵時代は教員という感覚はなく
自分もいっしょに学んでいました。学べたことが幸せ。
だから母校と思っています。

(光陵のユニホームを懐かしそうに眺める)
山口 苦労、多かったようですね。
稲元 成功の思い出はほとんどない。生徒は成功でも私は成功じゃない
こともけっこうあります。
野球は私の財産。かけがえがない。
生徒たちのこともよく覚えています。一人ひとりそれぞれに、
その子なりのきらりと輝くシーンがある。
私はあなた(山口)が私のユニホームを着て練習で走り回っていた
姿をよく覚えています。
山口 ありがとうございます。
先生が携わられたのは高校野球になるわけですが、高校野球という
ものについてどう感じていらっしゃいますか?
稲元 日本の野球が到達した最高レベルの野球です。軟式・硬式問わず。
1回負けたら終わりなので1試合に賭ける情熱・集中力はすばらしい。
精神的・肉体的・技術的・刹那的・年齢的...あらゆる意味で
最高レベルの野球をやっている。チームの和が必要で無償でもある。
日本独自の発達を遂げた、まさにガラパゴス現象。
だからこそ世間が見る(プロ野球を見なくても)。
最高のものを自分はやっているという意識は強かった。
山口 深い話になってきますね...。
野球の指導
山口 野球の指導者として心がけてきたことは?
稲元 私は理想主義なので理想に近づけたい。でもそのあまり、
総スカンになることは避けないといけないと思っていました。
磯子工業では技術も教えましたが光陵では技術は教えていません。
山口 光陵と磯子工業とではだいぶ違いがありましたか?
稲元 価値観が変わりました。
野球で1番おもしろいのはバッティングだと思うんです。
だから磯子工業では1番楽しいことを教えるためにバッティングを
中心に教えました。それによって野球を強くする。
そうしないと部が存続しません。
野球は将来(次の打席)が保障される特異なスポーツであり、
民主主義(みなに平等に打席がまわる)であり、
工場制手工業(分業制)です。
山口 なるほど。
光陵での野球ということで言えば在任時代に硬式に転向されました。
先生はこれまでの記録を全部保存していらっしゃるとのことでしたが
硬式(21期〜23期)での勝敗・勝率、わかりますか?
稲元 ええ〜。どのくらいですかね?
そこそこ勝っていると思いますが。記録を見ればわかります。
山口 13勝11敗の勝率.542。僅差ではありますが、光陵硬式歴代監督の中で
最高勝率であり、硬式転向初期が最も勝率がよかったことになります。
杉山監督(24期〜36期):67勝58敗2分、.536
長束監督(37期〜2008年まで):23勝26敗1分、.469
稲元 それは存じませんでした。
軟式の野球を取り入れたのがよかったのかもしれません。
守備中心の点をやらない、負けない野球を心がけました。
光陵ならバッティング中心でなく守備中心の野球ができる。
山口 今の光陵野球部を見てどう感じられますか?
稲元 だいぶ変わったとは思います。
山口 メッセージなどあれば。
稲元 えらそうなことは言えませんが。
今の光陵は「勝とう、勝とう」としているのではないでしょうか。
徒然草の110段。「勝とうと思って打ってはいけない。負けまい
として手を打つ」。まさに軟式の野球です。
今取り組むこと
山口 高等教育に長く携わられてひと段落を迎える時期ですが
振り返って、あるいは今感じておられることがあれば...。
稲元 英語はコミュニケーションの手段ですがそれよりも優れた
手段があることに気づき始め、今はその研究をしています。
井原西鶴の勉強をここ数年、しています。
山口 常に勉強ですね。
稲元 はい。
山口 お忙しい中、ありがとうございました。
また、33年半、あらためておつかれさまでした。
稲元 ありがとうございます。


<コメント>
稲元先生御退官に寄せて
稲元先生御退官おめでとうございます。そして、長きに渡った教員生活お疲れ様でした。 先生と初めて会ったのは私が光陵高校に入学したばかりだった1年生の英語の授業でした。 「ちょっと先生らしくない先生だな。」と言うのが第一印象でしたが、 その頃は弱かった阪神タイガースのファンだと御自分で豪語され、 野球が本当に好きなんだなと思ったりもしました。
その後、野球部の顧問となられ一緒に野球をやる様になりましたが、正直に言って最初は野球も下手で、 本を片手に練習している様な状況でした。しかし、野球にかける情熱は私達以上のものが有り、 今に続く光陵野球部の礎を築いて下さったと今でも感謝しております。私は今でも野球を続けており、 現役で試合にも出させて頂いておりますが(レベルは相当落ちましたが)、 その基礎になっている物(精神面、技術面共に)は、やはり高校の時の練習にあると思っております。 そういう意味でも稲元先生と、その頃監督をして頂いた鈴木彰先輩(7期:通称タレさん・・・ その頃は鬼だと思っていました)には本当に感謝しております。
あの頃の一番の思い出は、やはりなんと言っても関東大会に出場できた事でしょう。 我々が2年の秋ですが(1978年、昭和53年)、開催が神奈川県だった為に、 我が県からは3校が出場できることとなりました。光陵高校は、 県大会でその年の夏の全国大会準優勝の法政二校を破る等して3位となり出場を果たしました。 関東大会では、開会式直後の第一試合にあたり始球式も経験しました。 その時ボックスに立った1番バッターの長谷部君(13期)に始球式のボールが当たり、 デッドボールかと思いきや、後からバットを振ってなんとかストライクがコールされ、 試合前のベンチで安心したり大笑いした事も昨日の事の様に思い出されます。 きっと稲元先生も良い思い出として心の中に残されている事と拝察いたします。
我々は軟式世代ですが、野球にかける思いは皆一緒だと思います。 稲元先生はそんな思いを受け止めて、我々以上に野球に情熱を傾け、一緒に汗を流し、 時には一緒に涙も流してくれました。そして、感情もぶつけ合いながら過ごしたあの頃は 本当に人生の宝物だと思います。そんな宝物を私にくれた光陵高校野球部と稲元先生、 本当にありがとうございます。
最後にこれからの光陵高校野球部の発展と、稲元先生の御健康と御活躍を祈念して私の感謝の言葉と致します。」
(12期・金森靖彦氏)

「稲元先生、定年退職、おめでとうございます。33年間、本当にお疲れ様でした。
入学して間もない放課後、「野球がお好きですか〜?」と声を掛けていただき いきなり「こちら新しいマネージャーさんだ」と紹介されて、ビックリしました。 先生がスカウト(?)してくださったお陰で 大切な同期の友人、先輩方、そして後輩と出会うことができました。 ご迷惑ばかりお掛けして、振り返ると恥ずかしい気もしますが いつのまにか当時の先生の年齢よりだいぶ上になってしまいました。 春からは、新しいスタートですね。 お体に気をつけて、益々ご活躍ください。」
(15期・後藤文子氏。旧姓鈴木)

「稲元先生は野球経験がなく、とても野球について詳しいとは言えませんでしたが、 何よりも「野球が好きである」ということに関しては感心するばかりですね。 私の場合いろいろ衝突することが多かったと思いますが、「強くなろう」「勝とう」ということに 関しては同じベクトルだったと覚えてます。先生が光陵最後の年に初戦で敗退してしまったことは とても申し訳なかったと思いますね。定年ということで、まだまだエネルギーが有り余っているかと思いますが、 これからは無理せず、暖かく光陵野球部を見守って頂ければと思います。 お疲れ様でした。」
(23期・上田秀夫氏)


<編集後記>
長く教壇に立たれただけあり、常日頃、勉強を続けておられるという姿をお見受けし、 驚かされてしまいました。また、光陵での教諭生活・野球部生活が本当に貴重で 思い出深いものであったことが端々に感じられ、ユニホーム・新聞記事等の保存だけでなく 思い出としても深く心に刻んでいる様子が見受けられました。 「光陵は私の母校」を繰り返し強調される姿が印象的で、本当に光陵が好きであることが感じられました。

3月中に残り数回の授業を残し、4月上旬の離任式を経て、 4月からは定年再雇用で他校で英語教育にあたられるとのことです。 稲元先生のさらなるご活躍を祈念したいと思います。


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