神奈川県立光陵高等学校野球部
前史及び創成期史

穴澤秀隆(6期生)


産声

光陵高校野球部の前史は、1971年、光陵が立野から現在の権太坂に移転し、 6期生が入学した年に、軟式野球同好会を発足させたことに始まる。 立野時代の5年間の光陵高校は、野球をやりたくとも、自前のグランドすらないという環境であったこともあり、 この間に光陵で野球が行われた記録は確認されていない。

1971年4月、光陵は権太坂で初めてグランドを持ったが、部活動としての野球は、まったくなかった。 そこで、中学時代から野球をしていた、1年生の小林秀喜、野村道人、鈴木邦夫、北村章二 らが語り合って、同年夏ごろに野球同好会を発足させた。

けれども、グランドを持ったと言っても、それはグランドとなるべき用地を保有したに過ぎず、 校庭では整地作業のブルドーザーが動き回っているという有り様だった。 このため、野球同好会のメンバーは、元町橋バス停脇の空き地(現在はパチンコ店だが、 かつてはサンヨー電機の倉庫の敷地だった)に勝手に入り込んで、キャッチボールをしていたこともあった。 その後、校庭の整地は完成したが、同好会のままでは、適当な対戦相手に恵まれず、 練習試合すら満足にできない状態だった。

伝説

このころ、すなわち1971年夏ごろ、光陵高校野球同好会は、練習試合で境木中学に負けたという エピソードが伝わっているが、これは「伝説」ではなく、事実である。 なんとか試合をしたいという一心から、境木中に試合を申し込んだものである。 この試合が行われた場所は、光陵のグランドでも、境木中の校庭でもない。じつは境木中の近くの「空き地」。 文字通りの草野球であった。 そのため、イレギュラーバウンドしたボールを顔面に当てた野村が前歯を折り、 退場してしまうというアクシデントが発生。メンバーが足りなくなってしまった。 そこで、たまたま応援に来ていた剣道部員の渋沢新二(6期生、後に光陵高校教諭/故人)が、 制服、革靴のまま飛び入り参加して、なんとか試合を続行させたが、屈辱的な結果となってしまった。

土下座・昇格

だが、その恥辱にもめげず、あるいはその悔しさをバネとして、部員(同好会会員)は、 日々練習に励んだものと思われる。 また一方、彼らは、同好会からクラブへの昇格という課題に取り組むことになる。 当時、予算や校庭の使用をめぐって、野球部の昇格に反対あるいは消極的意見も多かったが、 メンバーは署名活動を行い、熱意をもって説得に努めた。その結果、11月の生徒総会において、 野球部の昇格が審議される運びとなった。

渡辺統之(6期生)の語るところによれば、このときメンバー全員が壇上で土下座をし、アピールしたとのことである。 その甲斐あってのことか、総会での承認を克ち取り、クラブへの昇格が決定した。 ここに光陵高校野球部(軟式)が正式に発足したことになる。 部員は全員、1年生(6期生)だった。


本格始動

初代部長は小林秀喜。 顧問は鈴木克己先生、佐々木裕先生(故人)が就任された。 また、この年の秋、事務職員、網代千都子さんの尊兄を初代監督に迎え、クラブとしての活動体制も整ってきた。 なお、初代マネジャーには、佐藤(前田)久美子(6期生)が就任した。

ユニホームもこの頃につくられている。 薄クリームの地に、袖口などに緑色のラインがあしらわれたもので、この選定は部員みずから行った。

72年3月の春季大会が、初の公式試合となったが、残念ながらこの記録は残っていない。 投手は野村が務めていたと思われる。

野球部としての本格的活動が始まったのは、1972年度からである。 同時に、この年は、新生、光陵野球部にとって、めざましい躍進の1年となった。 4月、1年生(7期生)を迎え、マネジャーには、本宮(三谷)朱美(7期生)も加わった。 投手で主砲の野村を三塁にコンバートし、1年生投手の江田生方を、 2本柱として起用し、2年生がバックをもり立てるという陣容をとった。 当時のラインナップは、大よそ以下の通りである。

投手江田一道(7期生)・生方守(7期生)
捕手赤沢達幸(6期生)
一塁鈴木邦夫(6期生)
二塁桜井知行(6期生)
三塁野村道人(6期生)
遊撃小林秀喜(6期生/部長)
左翼北村章二(6期生)
中堅渡辺統之(6期生)
右翼坂本一郎(6期生)

躍進の準優勝

このメンバーで臨んだ夏の大会では、横浜スタジアムに改修される前の平和球場で行われた試合で、 慶応高校に敗れたものの、秋季大会では、順調に勝ち進み、準決勝に駒を進めた。

武相高校グランドで行われた、その準決勝の相手は、ホームグランドの武相高校。 試合は接戦となったが、赤沢のライト前安打が決勝点となり、決勝戦に勝ち進んだ。

迎えた決勝戦は、同じ、武相高校グランド。相模台工業との対戦となった。 結果は、0:5で敗れ、関東大会への出場は逃したが、 光陵野球部は、創部1年を経ずして、神奈川県高等学校軟式野球大会において準優勝という、壮挙を成し遂げた。 1年前、寄せ集めのチームで中学生に一敗地にまみれたことを思えば、偉業と言える。

6期生の卒業アルバムに、楯と賞状を掲げている部員の写真が収められているが、 これらは、このときのものである。

ただし、この壮挙も当時、一般の在校生には、ほとんど知られることはなかった。 いかに軟式野球とは言え、残念なことであった。

73年、6月の杉田杯を最後に、大半の3年生部員は引退したが、夏休み後まで残った部員もいた。 以上が、光陵に野球を芽生えさせ、光陵高校野球部の礎を築いた野球同好会、及び創成期部員たちの球譜である。


あとがき

本稿は、2007年4月6日に行った渡辺統之と、4月7日に行った小林秀喜への電話取材を元に執筆し、 両氏の校閲 を受けたが、筆者は在学中より野球部に関係があった者ではない。 このため、不正確な記述があることを恐れている。関係者の方々のご批正を願いたい。
(敬称略)


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