神奈川県立光陵高等学校野球部 前史及び創成期史 |
穴澤秀隆(6期生)
1971年4月、光陵は権太坂で初めてグランドを持ったが、部活動としての野球は、まったくなかった。 そこで、中学時代から野球をしていた、1年生の小林秀喜、野村道人、鈴木邦夫、北村章二 らが語り合って、同年夏ごろに野球同好会を発足させた。
けれども、グランドを持ったと言っても、それはグランドとなるべき用地を保有したに過ぎず、 校庭では整地作業のブルドーザーが動き回っているという有り様だった。 このため、野球同好会のメンバーは、元町橋バス停脇の空き地(現在はパチンコ店だが、 かつてはサンヨー電機の倉庫の敷地だった)に勝手に入り込んで、キャッチボールをしていたこともあった。 その後、校庭の整地は完成したが、同好会のままでは、適当な対戦相手に恵まれず、 練習試合すら満足にできない状態だった。
渡辺統之(6期生)の語るところによれば、このときメンバー全員が壇上で土下座をし、アピールしたとのことである。 その甲斐あってのことか、総会での承認を克ち取り、クラブへの昇格が決定した。 ここに光陵高校野球部(軟式)が正式に発足したことになる。 部員は全員、1年生(6期生)だった。
ユニホームもこの頃につくられている。 薄クリームの地に、袖口などに緑色のラインがあしらわれたもので、この選定は部員みずから行った。
72年3月の春季大会が、初の公式試合となったが、残念ながらこの記録は残っていない。 投手は野村が務めていたと思われる。
野球部としての本格的活動が始まったのは、1972年度からである。 同時に、この年は、新生、光陵野球部にとって、めざましい躍進の1年となった。 4月、1年生(7期生)を迎え、マネジャーには、本宮(三谷)朱美(7期生)も加わった。 投手で主砲の野村を三塁にコンバートし、1年生投手の江田と生方を、 2本柱として起用し、2年生がバックをもり立てるという陣容をとった。 当時のラインナップは、大よそ以下の通りである。
投手 | 江田一道(7期生)・生方守(7期生) |
捕手 | 赤沢達幸(6期生) |
一塁 | 鈴木邦夫(6期生) |
二塁 | 桜井知行(6期生) |
三塁 | 野村道人(6期生) |
遊撃 | 小林秀喜(6期生/部長) |
左翼 | 北村章二(6期生) |
中堅 | 渡辺統之(6期生) |
右翼 | 坂本一郎(6期生) |
武相高校グランドで行われた、その準決勝の相手は、ホームグランドの武相高校。 試合は接戦となったが、赤沢のライト前安打が決勝点となり、決勝戦に勝ち進んだ。
迎えた決勝戦は、同じ、武相高校グランド。相模台工業との対戦となった。 結果は、0:5で敗れ、関東大会への出場は逃したが、 光陵野球部は、創部1年を経ずして、神奈川県高等学校軟式野球大会において準優勝という、壮挙を成し遂げた。 1年前、寄せ集めのチームで中学生に一敗地にまみれたことを思えば、偉業と言える。
6期生の卒業アルバムに、楯と賞状を掲げている部員の写真が収められているが、 これらは、このときのものである。
ただし、この壮挙も当時、一般の在校生には、ほとんど知られることはなかった。 いかに軟式野球とは言え、残念なことであった。
73年、6月の杉田杯を最後に、大半の3年生部員は引退したが、夏休み後まで残った部員もいた。 以上が、光陵に野球を芽生えさせ、光陵高校野球部の礎を築いた野球同好会、及び創成期部員たちの球譜である。