光陵野球部 創成期寄稿

赤澤達幸(6期生)

1. 私が野球部に入ることになったのは偶然でした。当時私は放送部に入っていて放課後 「皆、帰れ」コールをしに校庭を見廻っている時につかまり(まだ8人しかいなかった)、 9人目となったのでした。ポジションは皆が嫌がる(球が当たって痛いから)キャッチャーでした。 私は普通に子供時代、草野球をやった程度で、ほぼ素人でした。その他、坂本、桜井もそうだったと思います。 同好会当時は部発足時のメンバー8人に加え、藤井健がファーストをやって、 陸上部の牧野嘉明が助っ人をやっておりました。
2. 野球部になって強くなっていったのはなんと言っても網代(あじろ)さんのキビシーイイ・・ 指導によるものと思います。
  • 例@:当時グランドはサッカー部との取り合いで(人類史上この二部はそういう運命にある)ある日グランド取りに破れた時、網代さんはこう命令したのでした。 「サッカー部の練習が終わるまでお前らその周りを走っていろ」でした。 私達はその通りサッカー部がやっている周りを数時間走り続けました。その後練習が始まりました。
  • 例A:お腹が痛いので休みたいという部員に対しては「腹筋をやれ」と命令しました。(休ませてはくれない)
  • 例B:外野手に対しフライを取るのに「ボールを見ずに落下点に走れ」と命令しました。 それを続け、ついにある日、北村君は振り向きざまに見事打球をおでこに当てるまでになりました。
  • 3. 当時、マネージャーの前田さんは本当に良くしてくれました。でも私にとっては不思議というか、 なんでこんな雑用ばかりを進んでやってくれる人がいるのだろうと思っていました。 でも、あれから30年以上もたって今頃分かりました。
    私の娘が何を思ったか高校野球部のマネージャーになったのでした。 毎日毎日遅くまで、夏休みもほぼ毎日学校へ行って、家に帰ってもデーターだ、会計だ、スコアの集計だ、お守りだ・・・ と忙しく熱中し、疲れ果てて寝てしまうという高校生活でした。 部員(選手)同様、あるいはそれ以上野球部を愛し身を粉にして尽くしてくれたマネージャーあってこそ 野球部は存在できたのでした。
    前田さん、三谷さん、その後の歴代のマネージャーの皆さんありがとう。
    4. 準決勝での得点は出たとこ勝負でした。あの時、二、三塁、ノーアウトか、1アウトで私に打順が回ってきました。 そこまで0-0だったのでスクイズ有りということで武相は前進守備、ピッチャーも交代しての打席でした。 私は網代さんからスクイズのサインが出るのがいやで(あまり得意ではない)サインが出る前に 打ってしまえと思っていました。そこに大好きな外角高めのボール球がやってきたので、 思い切りひっぱたきました。後輩の大事にしていたバットは折れましたが打球はフラフラと内野の頭上を越え、 走者二人が帰り決勝打となりました。バットの持ち主の後輩も許してくれました。
    5. 決勝戦は日没コールドでした。ラストバッターは私でした。「あの夕日に向かって打て」 と意気込んで打席に入りましたが三振でした。奇跡は二度起こりませんでした。


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